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2011年3月12日土曜日

2日目の夜

東北地方太平洋沖地震発生後、2回目の夜を迎えようとしています。東京・横浜においては、すでに日常の姿が戻りました。でもまだ、ニュースでは東北地方の余震および津波の継続を伝えています。ライフラインのストップや物資不足等の都市機能が混乱している地域も多いようです。もうしばらく、強制的に突きつけられる様々な困難に、無我夢中の想いで対応していかざるを得ない時間が続く。。。そのような人々が少なくないようです。御本人・家族・友人知人等さまざまな形で被害に直面された方々へお見舞い申し上げ、事態の改善と被災された方々が一刻も早く元気になられますようにお祈り申し上げます。

歴史に深く刻まれるような事故事件が発生しても、決まってその瞬間には、その事の重大さを知る術はありません。いつもよりかなり大きめの地震。。。私もそんな認識でした。テレビの前に座って、やっと、首都エリアの通信+交通機能が完璧に麻痺していること、そして、震源近くの東北太平洋側の都市が壊滅状態であることを知りました。電話回線や携帯電話が使えず、家族や友人との連絡も取れない時間が長く続きました。頼みになったのがインターネットです。ウエブメールで家族ともやり取りが可能になりました。
 
私は横浜市内のオフィス街で最初の大きな揺れを迎えました。役所に向かうために、原付スクーターを運転し信号待ちをしていました。後輪がバウンドし始め、そのうちスクーター全体が暴れ始めました。最初、スクーター個体のエンジンの問題だと思った私。でも次の瞬間、交差点の向かいのビルが、大きく縦にS字を描くようにダンスをしているのが見えました。「違う!地震!」と理解しましたが、すぐに揺れは終息するとの希望的予測で、ほんの数秒、構造シュミレーションのような動きを見せる建物に見入っていました。しかし、そのダンスは終わりそうにありません
「違う!これは大地震!」「街のあちこちでビル倒壊が起こるかもしれない」。やっと私は事の深刻さを理解しました。とっさに自分の位置の両側のビルの様子を確認せねばと思い付きました。左に建つのは、1920年代に建てられた横浜市認定歴史的建造物でした。耐震補強はされているとはいえ、もしこの4階建ての建物が横倒しになれば、完璧に飲み込まれることを自覚しました。少しでも建物から離れなければと思いますが、立っていることで精一杯。偶然に居合わせた白バイの警官が、拡声器で「走行しないでください。車体から離れないで」と周辺の運転者達に呼びかけました。歩行者も含め、文字通り、街が凍りついた時間でした。何分間が経過したのでしょうか。揺れが収まり、再び車両が動き始めました。目的地に向かいつつ街の様子を見てみると、続々とビル群から人々が出てきて、街路や広場に集まっていました。連絡や情報を得ようと、揃って皆が携帯電話を操作していました。


後ほどこの地区での揺れは「震度5強」だったことを知りました。
これは16年前に、私が阪神大震災時に京都で体験したものと同じでした。

現在、まだ余震は治まっていませんし、第二の災害としての原発事故を報道が繰り返しています。 また今回の東北太平洋側の地震が、日本海側や内陸部等の異なる地点を刺激し、新たな地震が起こっているようです。まだ 緊張の糸をほどけない時間が続いています。被災地はもちろんですが、たとえまだ被害に直面していなくても、これから連鎖されるかもしれない災害に備える智恵立ち向かう強さと、そしてそれらをより強大にする人と人との結びつきを身につけねばと感じています。


by マン・マル